■世は「ボディ・ジャック」時代
「ボディ・ジャック」とは、単なる思いつきでも言葉の遊びでもない。別人格によって、人格をジャックされる。----心を乗っ取られ、一時的あるいは恒常的にボディを完全支配されてしまう。----これは、いま、とくに日本に集中的に起きている社会現象であり、現実であり、事実なのである。
この事実を、いまの人は知らなすぎる。知らないがゆえに、この世はボディ・ジャッカーたちの思いのまま。このままでは、この世があぶないのだ。
■戦争映画がふえてきた!
特攻隊をテーマにした映画が封切られたらしい。東京都知事がさかんに宣伝していた。(石原慎太郎・製作総指揮/脚本「俺は、君のためにこそ死ににいく」)「亡国のイージス」以来、ようやく普通の国になるためには、若者たちを思想改造しなければ・・・と、大人たちが気づいたのかもしれない。国について、戦争について考える----という意味では、いいことだと思う。
が、道は、果てしなく遠い。けれど、この道を行くしかない。迷路はたくさんあるけれど、近道はないのだから。
■「男たちの大和/YAMATO」
TVで映画「男たちの大和/YAMATO」を観た。歳のせいで(?)演出みえみえなのに涙が出てしょうがない。ラストシーンは、戦争世代の仲代達也と、その娘世代の鈴木京香、そして次の世代の15才の少年で、何かをシンボライズしていたのかもしれない。が、その方向性がよくわからない。
15才の少年が舟を操縦するのはいいとしても、彼は舟をどこに向けようというのか。
ただ、いまわしい戦場(歴史)から帰るためにUターンしたのか。京香は、育ての親に対して、「生きさせてくれてありがとう」とか言い、仲代は「戦後60年生きてきた意味がわかった」というようなことを泣きながら言う。
確かにヤマト体験は、その数少ない生き残りとして苛酷であったとは思う。しかし、引きずりすぎではないか?そして、60年たって、いったい何がわかったのか・・・。
アメリカと、もう一度やり直そうぜ!というのなら、まだわかる。今度は負けないように、もっと計画的にやってやろうぜ!というのならいい。(まだ平均点だが)しかし、ただ、生き残った生命の大切さとか、なんとか生きて生命をつないで大和民族を残そう(文化を含めて)というだけなら、情けない。そもそも、なぜ日本が戦争をしなければならなかったのか----が、わかっていないからだ。まして、仲代の恋人も、京香の養父の女も、広島で、米軍の原爆で殺されているのだ。
■卑怯者の国、ニッポン
戦争に対して、日本という国は、この国の人々は、かくも思考停止状態なのだ。上から下まで、まったくもって戦争がわかっていない。戦後憲法に象徴される「絶対平和主義」という卑怯者イデオロギーによって、この60年間、私たちの思考はくもらされてきた。
だいたい地政学を始め軍事学、参謀学などを教える大学が(防衛大を除いて)、ひとつもないという、世界にも類のない脳天気な教育を、この国はよしとしてきたのだ。60年間も。
確かに、この60年間、戦争はしてこなかった。だから平和だったと、絶対平和主義者はいう。しかし、それではその間、世界に戦争はなかったのか?日本は他国の戦争の恩恵は受けなかったのか?そもそも戦後の経済成長は、朝鮮特需から始まったのではなかったか?そして日本の平和は、アメリカの傘の下にいたから、直接火の粉をあびなくてすんだだけのことだろう。アメリカの力が相対的に弱まったいま、日本は応分の軍事的負担をせざるを得なくなっている。当然のことだ。が、この程度の負担ですんでいるのは、アメリカが、ユニ・ラテラリズム(一国支配)を標榜しているからにすぎない。これが、いま破綻しつつあるのは、そして、世界は再びマルチ・ラテラリズム(多極支配)に向かおうとしているのは、中国の動きや中東の緊張を見ていればわかることだ。が、日本の絶対的平和主義者たちは、相変わらず現実を見ようとはしない。
■事実としての「日本崩壊」
日本崩壊----といわれて久しい。家庭崩壊から教育、地域、企業、地方公共団体、そして国家。すべてがモラールダウンし、あらゆる規範がメルトダウンしてしまった。街は無法地帯と化し、企業社会も卑怯者がカッポし、無礼者社会と化している。
それでも、繁栄していればいいじゃない!平和ならいいじゃない!と、彼らはいう。しかし、この卑怯者社会・無礼者社会が何を生み出しているのか?----ひとことでいえば、この世の地獄化である。日本人の半数以上が、死後、地獄に堕ちている!これは、霊的事実である。
この事実が、あの世だけの問題であるのなら、まだいい。しかし、半数以上の日本人が地獄に堕ちるということは、その地獄から、この世の人間を狙ってボディ・ジャックしてくる悪霊たちが、幾何級数的に増えているということも意味しているのだ。
最近、この国には、凶悪事件がふえている。凶悪というより、わけのわからない凶暴さといってもいい。ふつうの主婦が、ふつうの青少年が、人を殺し、バラバラにして捨てたりする。相手が自殺するまでイジメるやつなど、かつてはいなかった。この国には----。それは、イジメは卑怯者のやることだ!という暗黙の規範が、子供たちの心にあったからだ。だから、ガキ大将がかばったり、いじめっ子をみんなで退治したり、社会勉強の場としての子供社会が形成されていた。
しかし、いまのイジメやケンカは、昔のそれとはまったく違う。似て非なるものと化している。
なぜか?----それは、「卑怯」という概念が、イメージが、若い者たちの心に存在しないからだ。そもそも、「卑怯者」など、言葉としても知らないのだ。
「卑怯」というのは、ひとつの例にすぎない。卑怯者をなくすために武士道を復活すればいい、というものではない。それは不可能だ。そもそも、相手を思いやる気持ちがないのだ。かつて、神戸の酒鬼薔薇事件の頃には、人を殺傷する前に、犬やネコやその他小動物に対する障害、虐待、殺傷事件があった。それが、サインでもあった。動物虐待の心がエスカレートし、ついには人を殺傷するに至る・・・と。
しかし、いまやそんな前兆の事件はない。自分だけがすべてであり、他人の心や思いや傷みを理解することはまったくない。わかろうともしない。それは、なぜか?
■愛を忘れた日本人
「愛」が欠如しているのだ。いや、言葉だけなら、人びとは若者たちは、「愛」を知ってはいる。しかし、それは間違った意味で知っているにすぎない。いまの「愛」は、相手のことを一切考えない愛なのだ。
だから、すぐストーカーに走る。強引に相手を自分の意のままにしたいと思う。「略奪婚」「略奪愛」という言葉が、TVでも出版でも流行ったことがある。そのまんま、「奪う愛」こそが愛だと、マジで、多くの人たち(とくに若い人たち)は思っているのだ。「愛=セックス」から始まり、「略奪愛」に至る愛は、じつは愛とは反対のものなのだ。----と、ちゃんと説ける大人がいなくなったことも大きい。いまや、誰もがほんとうの愛を知らないのだ。
いまや世の中から「愛」が消えてしまった。げに恐ろしき時代に突入しているのだ。
ちなみに、ほんとうの愛とは、奪うものではなく与えるもの。「自分がしてもらってうれしい」と思うことを、相手にしてあげること。そうしてお互いに与えあうことによって、愛は育まれてゆく。これは男女の愛に限らない。すべての人間関係にあてはまること。しかしこうした大切なこと=真理は、いまや学校の教科書にも載ってはいない。「宗教に属するもの」として、日本では教育からも社会からもパージされているからだ。
だから、自分の欲望を満たすために、いともカンタンに人を騙す。しかも、老人や身障者たちなど、いちばん守らねばならない人たちをも平気で陥れる。
卑怯の最たるものだ。
■凶悪化=ボディ・ジャック化
騙すだけなら、まだいい。最近ふえているのは、ちょっとした小遣い銭ほしさに、年寄りの家に侵入したり、見つかったら開き直り、あげくの果てには、というより、当然のようにアッサリと殺人まで犯してしまうのだ。
人を殺したら、それ相応の罰を受けなければならない。たとえ死刑はまぬがれたとしても、その人間の人生は、ほぼ終わりである。いくらのちに更正しようと、まっとうにはいかない。
しかし、たった数千円・数万円のために人を殺すなど、人間の社会にあっていいことではない。戦争末期の局地的な異常事件・・・とか云うなら、わからないでもないが。ごく普通の、日常的な出来事として、こうした事件が起こるようになってしまったのだ。この日本という国は。小学生でもわかるはずの、シンプルな道理----じつは、この道理がわかっていない人間が、いまの日本には、異常なほど増えている。
それは、なぜか?----誰にも教えられていないし、自ら学んでもいないし、もともと考えてもいないからだ。情けない話だが、これが事実であり、現実なのだ。
だから、あとさきを考えず、人を殺す。
そして裁判になると、否認する。よく覚えていない。記憶があいまい。殺ったかどうかわからない。
やったのは自分ではなく、自分のなかに入ってきた悪魔だ。魔が入ったのだ。
----実際、ボディ・ジャック事件がほとんどなのだが・・・。
そして、問題になるのが、「自白の信用性」であり、犯行時の「責任能力の有無」である。かくて人権派弁護士の出番となる。